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 このコーナーは明日の元気のために、希望が湧く、幸せな社会を作るため
に宇土高校OBで各地で活躍している人、頑張った人、尊敬できる人等をご
紹介します。次はあなたを、そして知人を是非紹介して下さい。


 第3回澤宮 優さんを紹介します。
 第2回旧姓・住吉公子さんを紹介してもらいました。
 第1回は宇城市長の阿曽田さんを紹介します。

第3回 09/7/20 澤宮 優さん(S58年卒)
  同窓生にはこんな活躍をしている人がいます。

  「日の当たらない場所で一生懸命に生きる人に光を当てたい」そんな思いで書き続ける
 インフィクション作家・澤宮 優さんにスポットをあてました。
  澤宮さんは1964年、雑貨店の息子として鏡町に生まれ小学生のころ、父の影響かふとした
 ことから古墳や貝塚に興味を示すようになり、まわりからは考古学少年と呼ばれるようになりました。

  しかし、ご自身は中学、宇土高校時代、強迫性障害に苦しみ不登校の経験があり、成績も下位に。
 それでも2年間浪人の末、作家を目指し上京し大学へ。 なんとそんな少年が現在はミズノスポーツ
 ライター賞を受賞するなど執筆、公演などで活躍されています。
  がんばれ 澤宮さん、そして一生懸命生きている人へ。

 今回は自称「負け組みへの応援歌」の澤宮 優さんを紹介します。

プロフィール(HPより抜粋)

昭和39年
  
 
  
 
熊本県八代郡鏡町(現八代市)生まれ。実家は大正時代から続く雑貨店。
有佐小学校を経て、鏡中学に進む。この頃から対人恐怖、赤面恐怖、強迫行為など強迫性障害に苦しむ。
「五歳のとき、お寺の地獄絵図を見たら、眠れなくなってね。毎日夜泣きしました」(本人談)
昭和55年
  
  
  
  
  
  
熊本県立宇土高校入学。高校時代の成績は330人中300番。強迫性障害の悪化もあり不登校となる。シナリオ作家を目指して上京する。考古学少年で、高校生の身分で「日本考古学会」に所属し、学校をさぼって、学術誌を読み耽っていた。高校時代は古墳や貝塚の発掘を経験する。
高三年の夏休みは連日貝塚の発掘に出かける。二学期、青白い級友たちに混じって、一人だけ真っ黒に日焼けした顔で登校した。「この段階で俺の浪人は決定した」(本人談)。
昭和60年
  
  
  
  
  
  
  
  
2年間の浪人生活の後、青山学院大学文学部史学科に入学。専攻は考古学。在学中は体育会日本拳法部に所属し、4年次には主将(二段取得)を務める。昼は下宿で寝ていて夕方のみ日本拳法をやるために登校した。四年間、学ラン(学生服)を着て過ごし、時折坊主頭にもなっていたので、「青学でめちゃくちゃ浮きまくった」(本人談)という。クラスメートは卒業まで「スポーツ特別推薦」で入学したと信じていた。なお、同級生に大川興業で活躍したピグモン勝田(故人)がいる。
「こんな馬鹿は見たことないが、これほど面白くてすげえいい奴は他にはいない。一緒に露天風呂愛好会作ろうと話したこともある

 赤裸々に語る澤宮さん 考古学少年になる(父と考古学)他、各新聞に掲載された記事の
一部ですがクリックしてみてください。 
IMAGE0001.PDF へのリンク (父と考古学ー熊日)
MAGE0002.PDF へのリンク(あとがきー日経)
IMAGE0004.PDF へのリンク(熊本野球人列伝ー熊日)
 さらに詳しくは下記サイトをご覧ください。 
澤宮優公式サイト

第2回 07/12/ ダンカン公子さんを紹介します。

 彼女は頭脳明晰はもちろんだが、運動神経も抜群、写実的な絵の才能も
あり美し
い声での歌唱力もあった。そしていつも笑顔を絶やさず誰とでも
会話を楽しむ人だ
った。
 私が彼女の学習方法で驚いたのは英語の単語を英和辞典で引き、その単
語の
意味を日本文から英文に直してノートに書き留めていたことだ。彼女
はそんなとき
から、日本人としてばかりではなく、国際人として将来を見
据えていらしたのだろう。
 そんな彼女が宇土高校を出て、津田塾大学を
卒業後
,国際結婚をし,4人のお子さんを立派に育て、今なお日本とオース
トラリア両国のファーストレディとして活躍されていることに拍手を送り
たい。ちなみに、彼女のお父さんは当時、宇土高校で物理を教えておられ
た住吉先生で寄宿舎の舎監長だった。ご両親とも慈愛に満ち
,ウイットに
富んだすばらしい方でした。
      (昭和37年度卒 前田郁子)

          私とオーストラリア
                                       ダンカン公子 37年卒
夫との出会い
 1966年7月、津田塾大学を出て間もない22歳の私が着物をぎこち
なく着て、
オーストラリアの首都キャンベラのパーラメントハウスでの
ディナーに出席した。

 近々、夫となるピーター・ダンカンとその父親、ロイ・ダンカンの友人
である海
軍大臣のドン・チャップ氏が私たちのために用意して下さったプ
ライベートディナーである。私の横にはジョン・ゴートン氏、奥様のベテ
ィナ夫人は反対側。ビル・スネドン氏など自由党の大臣たちに囲まれての
晩餐会だった。あまりの濃厚な雰囲気の中で私のつたない英会話に胸はド
キドキ。でも何はともあれ度胸を据えて頑張ることにした。それにしても
オーストラリアの方々のなんて親切なこと。私の会話を一生懸命に理解し
ようとしてくださった。

 ジョン・ゴートン氏の会話で覚えているのはいろんな国の女性の話である。
私がアメリカの女性は強過ぎると聞いていますがというと彼も同じ考えだ
とおっしゃやる。ディナーの後のほうになって
、イドネシア語を勉強してら
っしゃるベティーナ夫人はアメリカ人と聞いてびっくり。あまり知りもし
ないことをいうのは止めにしようと心に誓うことしきり。
 
 三週間ほどオーストラリアとニューギニアを回りいろんな人たちに会って
帰国後、年末には東京で結婚式を挙げた。それから数ヵ月後にハロルド首
相が水死されてジョン・ゴードン氏が首相になられたニュースが入った。

東京の義父ロイ・ダンカンと私の夫となったピーターの会社アライアンス
・インダストリーズシッパーズは戦前からのコネクションで三井物産と
非常に親しい関係にあった。1948年、日本に渡った義父はオーストラ
リアの鉄鉱石、石炭
,小麦,大麦、砂糖等の貿易をほとんど三井物産を通し
てやっていた。日本とオ−ストラリアの貿易の草分けとも言える。

 結婚後の私の役目は日本に見えたビジネスマン達や三井物産やその他
の仕事関
係のお客様のおもてなし。大使館のカクテルパーティーや日本人、
外国人のお宅
でのランチやディナーパーテーの集まりにも慣れた。結婚し
て1年目には長女の
キャロルが生まれた。

―懐かしい、人との出会い
 今でもよく覚えているディナーパーティのひとつ。主人の会社がオースト
ラリ
アのモルトを日本に入れたいので、我が家へサントリーの当時の専務の
本田氏と
担当、三井物産の重役と担当者、それに会社のスタッフが何人か集
まった。
本田氏がサントリービールを飲まれると皆右へ習えでサントリービ
ール。私はサ
ントリーが足りなくなりそうで大慌てで酒屋さんに配達を頼む。
すると本田氏が
ブランデーに変えられると、皆もブランデーやウイスキーに
変わった。食事もに
ぎやかにおしゃべりが弾み、デザートのころになると前
もってフリーザーから出
しておくはずだった手作りのアイスクリームレアケ
ーキがまだカチカチ。誰かが
フォークとスプーンで食べようとするとお皿か
らケーキがぽんと飛び出して大笑
い。今だったら電子レンジで調節できるの
に。
 私がニ、三日後に熊本の実家に帰る予定だというと本田氏も熊本出身
とおっしゃる。話をしていたらお互いに宇土高校出身と分かって二度びっく
り。しばらくして朝日新聞に「豪州のモルト屋さん」という題でそのパーテ
ィーのことを書いてくださった。

―思わぬ出来事が 
 そして結婚2年目に主人足の調子が思わしくなく、仕事で大阪に行ったと
き、新幹線の駅で転んだが、大丈夫との電話が同行のビジネスマンからあっ
た。
 数ヵ月後,メルボルンへ行き,友人の医師から主人は硬化性多発病という
難病だとい
う診断を受けた。聞いたこともない病名―まあできるだけのこと
をして普通の生活をエンジョイしようと主人と話し合った。 同時期
,私にも
2人目の娘ソーニャが生まれた。
 主人はマーシー病院。自分の病院へ行く途中、主人の病院へ“ハロー グ
ッバイ”の大急ぎの立ち寄り。次女が生まれたというニュースが主人から病
院の看護婦さんに伝わると、その夜はお祝いに生ガキとワインがディナーの
時に出されたとのこと。何て親切な人達だろうと感激した。

ダンカンさん一家
公子さんのお母さん(住吉先生の奥様)


―若草物語に

 次々と3番目の娘ジャネット、末娘のトミが生まれた。我が家は若草物語
ならぬバカ草物語だねとジョークをいっていた。
 東京の家とメルボルン、
シドニーの家を子供達、お手伝いさん達と毎年、行ったり来たりしながら、
1973年に本拠地をメルボルンに移した。
 長女が小さい頃はその3ヵ所
の幼稚園に通えてよかったが
,小学生になるとそうは行かないので主人の生ま
れたメルボルンを選んだ。主人は杖1本から手動の車
椅子、そして電動車椅
子と徐々にではあるが確実に病状は悪化していたので、東京
での生活はとて
も困難になっていた。
 愉快なのは茶目っ気のある主人が空路等で車椅子の
まま私から手足をストレッチ
してもらうとき、近くに人がいるといじめられ
ているみたいに「アッ」とか「ウー」
とかいって,しかめっ面をする。近くの
ベンチに座っていた老夫婦が「見てごらん、
あのひどい中国人の女を」など
と私を指差していたのはアメリカでの話。


 東京のオフィスはマネージャーとスタッフに任せメルボルンやシドニーの
パーム
ビーチでもいろんな仕事関係の人をお招きした。そのアライアンス
(会社)も今か
ら15年前に閉じてしまった。4人の娘達もすっかり大人に
なってしまった。長女
キャロルは離婚したが2人の男の子を抱えながらイベ
ント会社の仕事をしている。
2番目のソーニャはイギリス人の銀行家の夫と
ともに脱サラしてカナダ・ウィスラー
住まい。スキー客や観光客相手の仕事
をしながら2人の子供達とスポーツいっぱいの
健康生活。3女ジャネットは
自分の手作り小物会社を辞め、また大学に戻ってミディア、英語関係の修士
課程で頑張っている。末娘トミは小さい頃からの動物好きの延長で獣医にな
って大小の動物の面倒を見ている。2年前に同業の人と結婚し
,2カ月ほど前
に自分達の動物病院を開いた。日本語を考えて“イヌマ”というトレードネ
ーム。
INUUMAをくっつけたとのこと。

昨年,久しぶりにドン・チップ氏夫妻がランチにみえた。ドンはパーキンソ
ン氏病
を患っていて,ときどき言葉が出にくくなっていると奥様が代弁。
それでも相変わら
ずユーモアたっぷりのドンを見て懐かしいことこの上な
し。それから数ヶ月後彼が
亡くなられたとテレビで報道されたときのショ
ックは忘れられない。

―国際人に
 私達は相変わらず。今では週に2回になったが30年も続いている秘書が
我が家
にきて仕事をしている。不動産関係の人達やストックブローカー達
とミーティング
をしたり、シドニーのアートギャラリーのオープニングに
出たりしている。そして  
週に1回のディナーパーティーとブリッジ、
ゴルフを楽しんでいる。会話がますます
はっきりしなくなった主人の口元
を見つめながら2人で昔話をするのも私達の日常
生活の一こまである。
 あっという間に結婚40周年が過ぎてしまった。私はやっぱり日本人な
のかしら、
それともオーストラリアナイズされた日本人か、そうだ国際人
という呼び名をする
ことにしよう。(2007.8

第1回 07/12 阿曽田 清氏(宇城市長・昭和40年卒)をご紹介します。

 (1)8/28 熊本名産のデコポンと熊本ラーメンを世界に売り込むために副会長
  の沢さんの紹介で東京のチュニジア大使館で大使のサラ・ハンネッシ氏に会
  い、デコポンの苗を贈りました。

 会談する市長    大使と握手する市長    記念撮影

  (2)郷土の歴史、文化をアーカイブに (07/11/27日経新聞夕刊から)